いつか育児がしてみたい、と思い続けていた主人公の小野常雄は今、家事と3歳の息子の育児を担う主夫をしている。妻のみどりは書店の店長。自分の活動について、時給はいくら、マイナスいくら…などと考えながら、彼の日々が過ぎていく。
特にファンというわけでもないのに、山崎ナオコーラの本は買ってしまう。読み応えはいつもあまり変わらない。『美しい距離』だけは珍しくエモーショナルな出来だったが。
社会の中に生きる人間が、社会の外に出るのではなく、社会に属したまま社会を変える方法がないか模索していく、というのがナオコーラの小説の骨子だ。彼/彼女が悩む「問題」がいつも同じというわけではないが、ベースには「区別」への目線がある。性別や年齢、職業など、この社会で人をカテゴライズしている何かについて、ナオコーラは考える。
かと言って、個人主義というわけでもない。ナオコーラのとる戦術はもう少し複雑だ。たとえばこの小説でいえば、主人公の妹子(これはあだ名)が悩んでいるのは「自分の時給」についてだ。川に落ちた百円玉を、こどもと一緒に探した挙げ句見つからない。時給マイナス百円の男。病気かもしれない野生のたぬきのことを動物病院に相談に行く。時給マイナス千五百円の男。冗談めかしているが、気にしていないわけではない。
個人主義者なら、「そんなこと気にするなよ」と言うのかもしれない。そんなのどうでもいいだろ、と。自分の価値を時給になんて換算するな、と。しかしナオコーラの描く人物は悩む。社会のルールを認識した上で無視する、という態度に出ることができない。そのルールに、社会にとらわれたままで、どうにかして胸を張って生きようとする。社会と関わるのをやめようとしない。「息苦しい社会」について考えるタイプの小説であるように思って本を手にとった個人主義者は、ナオコーラの描く人間の考え方に面食らい、反発するかもしれない。かといって、もちろん保守的な読み手が満足するような内容でもない。だからナオコーラは左にも右にも受けが悪い。でも、時間をかけて考えることが好きな人には、あるいはそういうふうに考える人を見ることが好きな人には、特別な作家だろう。
まだ迷いを感じる内容ではある。社会にとっての自分の価値は何なのかと悩む妹子が行き着く答えは、その時々によって変わる。あるときは「お金を払うことに意味があるのだ」と思ってみる。またあるときは「主夫業界に少しでも貢献できれば」と考えてみたりする。前者は熊谷晋一郎の言う「生産性よりも必要性が勝る」に近いものがある。ただしこれは、論理的に正しいかどうかはよくわからない。後者は、ナオコーラが自らのエッセイで語る「売れないのに小説を書き続ける意味」をそのまま反映しているのだが、やはり曖昧で感覚的なものにとどまっている。このふたつが同じものなのか、違うものなのかもよくわからない。ナオコーラ自身の論理が煮詰まっていない。でも、煮詰まっていないまま書かれたものに意味がないとも思わない。
それに、合間合間に描かれる、ほかの子どもの親との雑談や、道行く人との他愛もない(けれどひやりとするところがないわけではない)会話があることを忘れてはいけない。このとき、妹子は自分の価値について考えない。ただ会話のリズムに集中して身を任せる。その状態は不安定ながら心地が良い。この小説のエッセンスはもしかするとここにこそあるのかもしれない、とも思う。人と交わることに集中しているときは、余計なことは考えない。それでいい。そういう話かもしれない。