前作『忘れられた巨人』が2015年ということなので、約6年ぶりの新作。前作はファンタジーの体裁をとったひとつの寓話というように比較的明快に読めたが、今作はちょっと読み方が難しい。
今作は全5章から成り、各章がそれぞれ(おおむね)1つの場所とその周辺を舞台としているので、読んでいる感触としては戯曲に近いようなものを感じた。もしくは人形劇。
時代設定としては近未来のアメリカに似た国。格差がいよいよ固定され、世代を超えて継承されていくそれを乗り越えるには、生後、こどもを遺伝子編集すること=「処置」が事実上唯一の手段である。また各地に脱法・脱国家的なコミュニティが作られ、世界が次第に不安定化しつつある様子が示唆されている。このあたりの容赦のない未来観はさすがと思わせるものがある。クララから見た視覚的世界の揺動、イメージの重なり、間歇といった描写も、2021年の今となっては多かれ少なかれ映画やアニメなどの演出で既視感がある分、すんなり入っていける。
物語はおおむね、クララが「友達」となるジョジーの病気を軸に展開される。ジョジーは、明言されないもののおそらく母親の決断による処置の結果、命にかかわる病を患うようになる。どこの器官が、というよりも彼女は全体的になんとなく衰弱していく。「友達」のクララはジョジーの回復のため、AIらしからぬ祈りと行動に出る…というのが筋だ。
描かれるものとしては、AIのクララから見た人間たちの葛藤、一見矛盾するようでいても同じ心から湧き上がってくる感情と行動、会話の応酬の中で抑えても抑えられず浮かび上がる激情、苦悩、といったところだろうか。会話のやりとりの描き方は、これはもう巧みの一言で、翻訳もしっかりついていっているように感じ、文句のつけどころはない。人間を描く、というのがこの作品の狙いなら、それはひとまず成功している。
だが、この微妙な読後感はなんだろうか。
非合理的な祈りと行動の結果、奇跡としか言いようがない出来事が起こり、ジョジーは回復し、歳を重ね、家を出る。その後、クララは捨てられ、廃棄場で静かに時を過ごしていく。ここで問題なのは、クララが捨てられたことそれ自体ではなく、クララがすべてを受け入れているように見えることでもなく、クララが捨てられ、それをクララ自身が受容していることが、物語上まったく違和感のない形で描かれている、ということだと思う。これはつまり、ジョジーとクララの間には友情なんてものは存在したことがなく、したがって、友達に対してであればあり得ないこの廃棄という行為が、この物語ではあり得てしまう、ということでもある。
実際、ジョジーの回復は特別感動できるようなものではない。クララの目を通して見る彼女たち人間は気まぐれで自分勝手な生き物であり、その不完全さに「まるで自分のような…」という既視感こそ覚えるものの、ちゃんとした愛着を持つほどの対象としては描かれていない(描こうと試みられてさえいない)ように感じる。クララは自らの役目としてジョジーのために力を尽くす。そこに感情はない。クララを「一個」として認めコミュニケーションをとろうとするキャラクターは何人もいるが、彼らの目的はクララのAIとしての判断を仰ぎ、それを何かに活かすことのように見える。結局のところ、ジョジーの身に起きた奇跡がクララのおかげであろうがなかろうが、クララと人間たちの間にinteractionはなかったのではないか。
そう考えると、他の誰でもなくクララを語り手として採用した理由というのは実は、AIが、その存在が物語に影響を与えないような観察者として最もふさわしいからではないか、という気さえしてくる。人間たちの矛盾だらけでなりふり構わない苦闘を、できるだけ元の形を保ったまま掬って表象すること。主人公の役割は純粋なカメラであり、切り取られる人間の物語は有限だが、カメラの命は永遠だ。読み終わった後のどことない居心地の悪さ、あるいは後ろめたさは、物語を成立させていた永遠をつかの間見せつけられたことによるものなのかもしれない。