ハン・ガン『回復する人間』

2016年にアジア人初のブッカー賞を受賞(『菜食主義者』)した、という折り紙付きの韓国人作家。日本では近年の韓国文学ブームよりもやや先行して紹介されていたような印象があるが、いかんせん韓国人の名前表記に慣れていないのでこれといった前知識もないまま読了。非常に完成度が高く、それは原文と翻訳それぞれのレベルの高さから来ているものと推測する。

300p弱に7つの短・中編を収録。タイトルにもつながるイシュー「傷(と回復)」がどの作品にも通底しており、それぞれの登場人物に傷、そしてそこからの変化を見出すのは難しくない。といって、エンタメ的な自明さがあるかというと、異和感を覚えさせるような並列や突然の転換などもあちこちにちりばめられており、ははぁこれは文学だなという感想がまず出てくる。かつての勤め先の先輩を喪った女性、疎遠だった姉の死を受け止めきれない妹、もういない初恋の男性との時間を思って綴る手紙。それぞれは読み解いていけばかなりの程度分かりやすい関係性になっているが、少しずつ全体像が見えてくるような語りの構造と、美しいモノの描写によって、この小説集には独特の味わいが出ている。痛みと熱と少しの安らぎが喉におりてくるような、複雑な味わいの茶を大切に飲み下していくような。そうした、身体的に感じるとすら言えそうな、重い(けれど鈍重では全くない)文体で描かれた、絵画のような小説集だ。
中でも白眉なのは邦題「火とかげ」とされた最後の中編で、これはトラウマの経験とそこから生じた重大な役割変化を、自分なりにどう生きていくか、という精神医療的なストーリーとしても読めるかもしれない。生から弾き出された主人公は、写真として具現化された過去を手さぐりで引き寄せながら、自分の中に感情と光と未来をもう一度、いちから作り直していく。他の短編にも少し出てきたが、過去と現在をいわばパッチしてつなぎ合わせ、元のものとは全く別の、けれどその人にとっては意味を持つ「二次元的な時間」として生を生き直すという考え方は、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』の時間概念を思い出させる。過去は過去ではなく、現在という写真の隣に並ぶもう一枚の写真である。…そう思ったとき、それは喪われたものであると同時に、そこにあるものになる。この考え方に救われる人がどれだけいるだろうか。

韓国文学を読んでみようと思った経緯について記しておくと、直接的には『小説版 韓国・フェミニズム・日本』を読んだことがきっかけなのだが、このアンソロジーの出来がよかったから、というわけではない。少なくとも韓国人作家の作品は、結果的にはどれも面白く読めたが、どうも読みにくかったのだった(ちなみにハン・ガンの短編もこのアンソロジーに収録されているが、ほぼ人名の出てこない彼女の作品は、その意味でまず大変読みやすかったし、『回復する人間』を読んだ後だととりわけそのイシューの”らしさ”のようなものを味わえる)。まずこの読みにくさに少し驚いた。
なぜ読みにくいのか考えてみたのだが、一つには、登場人物の性別が、名前からだけでは判断できない―ということが大きいように思う。英語でも日本語でもフランス語でも、大まかにキャラクターの性別というのは名前から判断できるものだが、韓国人を名前だけで男か女か判断するのは今の僕には不可能だ(そもそも名前で男女の区別をつけるような社会なのかということさえ分からない)。しかしこのアンソロジーに収録されている韓国人作家の作品はすべて、どのような切り口であれ「女性」をめぐるものだから、キャラクターの性別は読み進めていくのにほぼ不可欠な要素になってくる。山崎ナオコーラが別の雑誌に掲載されたエッセイで「性別のない小説を書きたい」と述べていたが、性別があるということが問題の前提なのであり、それを消す、あるいはなかったことにするのは、フェミニズムの文脈で言えば問題の解決にはならない(もしこの問題を何かの形で扱いたいと思うのであれば)。
…ともかくそういうわけで、読み進んでいくのに(母語に翻訳されたものであるにもかかわらず)大変苦労したアンソロジーだったが、これはもしかすると翻訳の問題かもしれなかった。あるいは、韓国語から日本語への翻訳において発生する何かであるという可能性もあった。韓国語に少し興味が出てきた。それで、他の韓国文学を読んでみようと思ったのだが、そこで日本語で読むべきか、英語で読んだほうがよいのか、かなり迷った。結果的には、このハン・ガンの小説集はきわめて高いレベルの翻訳がされていた(少なくとも、読んでいてそうであろうと感じた)ので、日本語で読めてよかったのだが。

ちなみにこの話はもちろん、「読みにくい」ものに価値がないということではない。むしろその逆だ。