主人公が師事することになる徳永先生というキャラクターについて、この人は自分が大学でわずかに教わったことのあるあの人に似ているなぁ…と思っていたら、どうも本当にその人をモデルにして書いたらしいことが参考文献からわかった。僕がとった授業では戦前日本における儒教について書かれたテキストを扱っていたが、内容はあまり覚えていない。これはこの国の現代史にとって何かただならぬ重要な伏線なんじゃないか、という漠然とした面白みのようなものは感じられたけれど。
主人公は師に自然と近づいていき、師のもとで思考と格闘し続ける。全編にわたり、「知/哲学」というものへの信頼が、主人公の中にはある。たまにすべてを相対化するような発言もする主人公だが、にもかかわらず哲学には強めに価値をおいている。研究そのものの価値には異議申し立てをしない。2020年のこの国のアカデミックな場に漂っているかもしれない種類の徒労感や絶望感は、2001年の彼自身の中にはほぼ存在しない。それはとりあえず時代と、彼の才能のおかげかもしれないが、他の登場人物にもやはり陰はほとんどない。彼らは恐れや不安、装い、そういったパーソナルな「秘密」を隠すことなく、自分に言い聞かせるかのように読み手に打ち明けてくれる。そして透明な水槽の中をぐるぐると回りながら、上を見ている。小説全体が透き通っていて(それは美的であるということとはまたちょっと違うが)、恥ずかしがりながらも親密な感じを漂わせていて、まっすぐだ。つまり、ひとことで言えば大変素直な小説なのだ。
逆に言うとひねりはほとんどない。動物になること/女性になること、というポストモダンっぽい修論のテーマは至るところで顔を出す(「動物」というキーワード自体がポストモダン哲学の常連ではある)し、ここで興味を持った読み手に、気になるならこちらへ、と手招きする程度の余白はあるけれど、それ以上でも以下でもない。少し気圧されてしまうほどに、まっすぐで真面目。
この小説と比較するべきものがあるとしたら『三四郎』だと思う。何かに惹かれ、自問し、自意識と欲望の間でもがき、その何かは結局主人公の手をすべり抜けていく。異なるのは、三四郎は「成功」のまわりでぐるぐると回っていたが、『デッドライン』の彼は哲学のまわりをぐるぐる回遊しているという点だけだ。三四郎にとっての成功が、彼にとっての哲学なのだ。それくらい真面目に、素直に書かれているから、新鮮で、面白いと感じる。そういう小説だ。