Paul Bloom 'Against Empathy: The Case for Rational Compassion'

Against Empathy: The Case for Rational Compassion

日本語の「共感」がそうであるように、英語でもempathyという言葉は多義的で、このことが議論の混乱を生んでいる模様。作者はまず、empathyをcognitive empathyとemotional empathyとに分ける。前者が、論理的に他者の感じていることを理解し、世界をよりよくするために必要なことは何かを考え実行していくための力であるのに対し、後者は他者の感情をミラーリングし、他者が感じていることをほぼそのまま感じる能力だ。作者が主に批判的検討を加えていくのは後者のミラーリング能力であり、これによって引き起こされる、物事の非論理的な進行である。ショッキングな大事件が人々の感情を動かし、その裏で淡々と進行している悲劇にはだれも注目をしなかったり、政策が中身でなく「どの党がそれを言ったか」で判断される、といったemotional empahtyによって発生していると考えられる様々な事態を仔細に例示する一方で、emotional empathyがよりよい世界/人間を生むためには必要だという主張に対しても執拗な反論を加えていく。スティーブン・ピンカーほどではないが、ブルームもわりとねちっこい議論を展開するタイプである。

ほどではない、というのは主張の中身そのものについても言えて、大雑把に、一方の端に「極端な共感派」を置き、もう一方に「極端な論理派」を置く線分を考えたとき、過激とも思われかねないレベルのeffective altruismを主張するピンカーは「極端な論理派」にほど近いところに位置するだろうけれど、ブルームはそこまではいっていない。真ん中と「極端」の中間地点くらいかな、という気がする。「一般市民」の気持ちもわかるけど、論理的に考えればこうだよね、という感じのbridgingをする一冊と考えればよいと思う。論理的に、と言えば、最終章は「人間の理性的思考」を擁護するパートとなっていて、とかく非論理的なぶち上げが耳目を集める昨今、理性を重視する立場をとるということはなかなか苦労が多そう。

個人的に興味深かったのは、医療・カウンセリングの現場においてemotional empathyは有効か?という4章での議論。技術を習得していく過程でempathyを重要視し強調する教育が行われているけれど、クライアントのネガティブな感情をミラーリングしすぎるといわゆる「燃えつき burnout」の状態にまで至ってしまい、医者・カウンセラーのほうがしんどくなってしまうという話で、これまで読んできた精神医療/カウンセリングの本の主張とも合致し、ここでつながるのか、とちょっとした感慨があった。あくまでも問われているのは病状や症状についての専門的知識と対策であって、クライアントに共感し、一緒になって苦しむことではない。そうした「専門家的態度」をとったときに受けるかもしれない、ミラーリングをしてくれないから冷たく感じる、などといった非難については、それはそれとして別途対策(言葉でしっかりとコミュニケーションをとり、密に確認・連絡をしていく等)をとるべき事柄であって、信頼してほしいからemotional empathyを意識するなどは悪手ということだろう。

それにやや関連して、こどもの共感能力について書かれた幕間の章も、小品ながらけっこう面白かった。こどもに慰められる、というのは、ある種のサプライズと同時に、直接的に心に響いてくる何かがあるように思われるが、以下は本書で引用されているある「慰め」の事例。

“The 15-month-old, Len, was a stocky boy with a fine round tummy, and he played at this time a particular game with his parents that always made them laugh. His game was to come toward them, walking in an odd way, pulling up his T-shirt and showing his big stomach. One day his elder brother fell off the climbing frame in the garden and cried vigorously. Len watched solemnly. Then he approached his brother, pulling up his T-shirt and showing his tummy, vocalizing, and looking at his brother.”

“watched solemnly”というところがミソで、これはミラーリングが起きていないということを言いたいのだろう。共感はしていないけれど、痛がっている兄を笑わせようとしている。これは、何か「いい」感じがするシーンだ。もしかすると、共感をしていないにも関わらず、相手の状況を思いやって行われる行為にこそ、もっとも純粋な何かがあるように僕らは感じるのではあるまいか(逆に言うと、ミラーリングが起きている状況で相手に何かをしてあげたがる人物には、自分の気分を改善するためという動機も見てとってしまうのかもしれない)。

ちなみに、ブルームのいくつかの議論の参照枠としてたびたび(その多くはやや批判的に)引用されているサイモン・バロン=コーエンは、日本でも翻訳書が出ている、empathy-system理論で著名な自閉症研究者だが、本書では自閉症についてはほとんど記述がない。共感能力の欠如とサイコパス(この単語もまた議論の余地大いにありだが)、ひいては暴力性の関連について語られる章において、自閉症やアスペルガー障害を持つ人にE: empathy能力が欠けているとしても、(バロン=コーエンが指摘しているように)彼らがモンスターであるわけではない、といったことが書かれる程度である。